『時の闇に消えたアパート』
2025/01/23
『時の闇に消えたアパート』
※この物語はフィクションです。
【第2章 刻まれた呪い】①
翌朝、俺は薄暗い管理人室の窓から外を覗き込んだ。昨日の夕暮れ時とは打って変わり、空は鉛色の雲が一面を覆い尽くしている。まだ夜が明けたばかりだというのに、まるで夕方のような陰鬱な光景だった。重たい空気がアパートの周囲を包み込み、建物全体が沈んでいるように見える。
「まるでここだけ、別の世界に取り残されているみたいだ……」
そんな印象を抱いてしまうほど、空と建物が溶け合っているように感じられた。昨夜も、謎の足音に何度も目を覚まされ、ろくに寝られなかった。薄暗い照明の下で時計を見ると、まだ朝の六時前。調査を続けるため、そろそろこの部屋を出てアパート内を見回ろうかと思ったとき、不意に激しい耳鳴りがしてバランスを崩しかけた。
「あ……」
額に手を当て、目をぎゅっと閉じて深呼吸をする。耳の奥でこもるような音が鳴り、まるで遠くで太鼓を叩いているかのように頭蓋骨を震わせている。気のせいではない。昨夜から感じていた違和感が、より強くなっているようだ。
ようやく収まった耳鳴りにホッと安堵するが、心の底から嫌な予感がこみ上げてくる。結局、アパートに来て以来、まともに休めた時間はほとんどない。重苦しい眠気と、絶え間なく襲ってくる不安が交互に苛んでいる。
「こんな状態で冷静に調査を続けられるのか……」
自分に問いかけながら、俺はあえて声に出して独り言を言った。それは不安を打ち消すための行為だ。ここに来て以来、静寂がやけに重たく感じられ、声を発しないと自分の存在が希薄になるような恐怖に襲われるのだ。
けれど、逃げ出すわけにはいかない。オーナーが抱えている問題の解決のためにも、そして失踪した人たちの手がかりをつかむためにも、調査を続行しなければならない。神木の伝説と、この木彫りの像――それらが何らかの形で関係しているのは間違いない。
俺は顔を洗い、簡単に身支度を整えると、昨日見つけた像のある三階の部屋へ向かった。鍵はオーナーにも伝えてあるので、勝手に開けても問題はない。今日こそは、あの像を詳しく調べてみようと思ったのだ。自分の気持ちとしては正直、近づきたくないという恐怖が大きい。しかし、このまま無視していては、状況の打開策が見つからないだろう。
階段を一歩上がるたび、ギシッ……ギシッ……と軋むような嫌な音がする。雨でも降り始めたのか、窓ガラスを叩くような音が微かに聞こえる。曇天の光が差し込まない廊下は、朝だというのにまるで深夜のように薄暗い。心拍が速まるのを感じ、胸元をおさえた。
おかしい。三階へ続く階段は昨日も通ったはずなのに、今朝はなぜか階段が長く感じる。足元を見つめ、何段目を上がったか数えようとするが、途中でわからなくなった。微かな動悸と重苦しい息苦しさが、足を鉛のように重くする。
やっとの思いで三階の踊り場にたどり着き、廊下に身を乗り出すと、ひどく濃厚な空気に包まれた。昔の押し入れを開けたときに漂うような、乾いた埃の臭いと、底冷えする冷気。真夏でもないのに、まるで冬の朝に吹き付ける冷たい風のようだ。ぞっとするほど寒い。俺はうっかりすると唇が震えそうになるのをこらえ、部屋のドアに近づいた。
鍵はかかっている。昨日のままだ。オーナーから預かった合鍵でドアを開け、部屋の内部をそっと覗く。見慣れた一室がそこにある――はず、だった。が、朝の光が窓越しに入るかと思っていたこの部屋は、薄暗く淀んだ空気に満ちており、まるで夜の闇を閉じ込めているように見えた。
足を踏み入れると、寒気がさらに強くなり、肌を刺すような冷たさが襲ってきた。無意識に肩をすくめ、懐中電灯をつける。昨日と同じように、部屋はがらんとして家具一つない。壁にはしみが浮き、床には埃が溜まっている。そして、俺の視線は部屋の奥にある飾り棚へと向かった。そこに、あの木彫りの像がある。
――黒ずんだ木材で作られた、歪な人型のような像。
正直、触れたくはない。それでも、少しでも情報を得るには、近づくしかない。意を決して像の前に立ち、懐中電灯の光を当てる。その瞬間、昨日は何とかこらえた吐き気が再びこみ上げてきた。妙な圧迫感が喉を塞ぎ、息が詰まる。俺は必死に呼吸を整え、像を凝視する。
昨日までは気づかなかったが、その木彫りの像には全体に細かな文字や模様が刻まれているようだった。ひび割れや汚れで判別しにくいが、どうやら何らかの呪術的な文様や文言のように見える。しかも、それらの刻印は像の全身を覆っていて、ただの装飾とは思えない。まるで、何かを封印するために貼り付けられた札のようにも見えた。
「これは……?」
~~~ 続く ~~~